プログラムノート
随分昔、私がおそらく高校生か大学生であった頃、A.セゴビアのインタビュー記事が日本のギター専門誌に掲載されました。どこで誰が行ったインタビューかはわかりませんが、セゴビアの人生を振り返ったり、ギター音楽について語ったりと、興味深い内容でありました。その中でマエストロは「ギターの音楽会に足を運ぶ聴衆は、テデスコのソナタや、トローバのソナタといった大曲が目当てではなくて、タレガのアラビア奇想曲や、アデリータのような小品が聞きたくてくるんだよ。」と言っていた事が、当時は強烈な印象であったと同時、そのことに強く反発を覚えたことを記憶しています。あの巨匠でさえも、そのように考えていた(あるいは感じていた)ということ、そして私はギターと言う楽器が、そういった大曲には向いていないんだ、と思うと、居ても立っても居られないほど寂しく、悲しく感じたのでした。
セゴビアがインタビューの中でそのように発言した意味やその真意は、今となっては正確な事はわかりません。もしかしたら、マエストロ自身のギターの聴衆に対する不満であったのかもしれませんし、あるいはまさにギター音楽の真実を述べた言葉であったのかもしれません。私自身は若い頃には、そういった言葉とは関係なく、ひたすら難曲や大曲をプログラムに加える事に情熱を注いでいました。
スペインに留学して、何人かの素晴らしい先生に習う事ができました。なかでも、故・ホセルイス・ゴンザレス先生や、今も世界中で活躍する(私と年齢は一歳しか変わらないのですが)デイビッド・ラッセル氏は言うまでもなく、魔法使いのようにギターから素晴らしい、神秘的な音楽を奏でます。彼らは、そして、私達が見過ごしてしまいがちな小品の演奏にも(まさに獅子がどんな獲物を狩る時にも全力を注ぐように)、深い洞察と練習によって、夢見るような演奏を聴かせてくれます。このような体験は(それが音楽である限りは、ギターだけではなく、どんな楽器でもありうる事なのですが)、特に彼らには飛び抜けた事であり、私が経験した強烈なもののひとつでした。
音楽は曲の規模の大小や長さ、演奏の難易の度合いで、酌量する事は出来ませんし、そのことに意味はありません。たとえそれがどんなに僅かの瞬間であっても、私達が夢を見ることの出来る時間の隙間がある事を発見する事にこそ、音楽の楽しみはあるだろうし、またそれをなし得る事が、演奏家には求められているのだろうと、今は強く思っています。 (藤井眞吾 2014/05/16)
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夜と夢(F.シューベルト/藤井眞吾 編)の楽譜を進呈しました
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