先月25日よりアメリカに行ってきました。主な目的はワシントンDCとダラスで演奏される「天使の協奏曲」を聞くためです。独奏は勿論
W.Kanengiser氏。私は自分の作品が演奏されるのを一人の聴衆として聴くことを至上の夢と思っていましたし、ましてや今回は独奏者が、あの
W.Kanengiser、・・・このチャンスを逃す手はないと思ったのでした。ワシントンDCでは名門 Peabody音楽院の学生達が
Julian Gray氏の指揮で演奏。ダラスではテキサス州立ダラス大学のギター科学生を中心に、テキサスのその他の音楽学校の学生、ギタリスト、一般の愛好家などによる特別合奏団、Enric
Madriguera氏の指揮でした。
いずれの演奏会でも、胸をときめかせながら演奏を楽しみましたが「客席で、一人の聴衆として自作品を楽しむ」という夢とは、何故か感動的な出会いをしませんでした。演奏に不満があったわけではありません、・・・むしろすばらしい演奏でした。客席にいながら、演奏が心配になって聴衆になりきれなかったか、・・・いえいえそんなこともありません。帰りの飛行機の中でその理由をずっと考えていました。
本日のコンサートシリーズは《音楽の彼方で》と言うタイトルです。何か抽象的な響きですが、難しいことを言うつもりは毛頭ありません。美しい作品を聞きながら、その音楽の彼方に、何かを感じたり想像したりして頂きたい、・・・そんなつもりで付けたタイトルです。音楽は自由です、それは聞き手に与えられた自由の世界でもあります。いかなる音楽作品も「こう聞かなければいけない」などと言う規定はありません。何を感じるのか、どんな情景を思い描くのか、それは全く自由であり、そして不定のものであるかもしれません。同じ曲でも、違う時に聞いたら、別の印象を持つ・・・、などというのはむしろ当たり前のことだと私は思うのです。
私が、私の「天使の協奏曲」を聴衆として聞くことに期待していたのは、まさにそのことであったのかもしれません。これまでは指揮者として練習やステージの上で体験して来たのと「違う何か」を聞きたいと思っていたのでした。しかしよく考えてみると、実は作曲をしている時も、そして練習をしている時も、ステージでオーケストラのメンバーと向かい合いながら指揮をしている時も、いつも私の心は客席にありました。だから自分自身の作った音楽を最初に楽しんだ聴衆は私だったのかもしれないと、そのとき気付いたのでした。作曲は自分自身の心の中を探る作業ですが、演奏はそれを再思考すると同時に聞き手との関わりです。「青い鳥」を求めてアメリカまで旅をしてきましたが、その青い鳥は私の帰国を我が故郷で待っていたのだと、やっと知る事ができました。
(藤井眞吾/2010年3月19日)
|