プログラムノート
このコンサートシリーズを始めてから毎年、三月には春の温もりを待ちきれず、そんなタイトルをつけてきました。北海道育ちの私にとって春の訪れは格別の物ですが、京都の春は、薫る春風、煌めく川の流れ、狂ったように開いた桜の花びら、それはそれは豪華で絢爛、北海道のそれとは比べ物になりません。ところが、一昨年も、昨年も、そして特に今年は、春の足音遠く、肌寒い日々が続いています。
ギターの練習をしていたら、一瞬、目眩がしたのかと思い天井を見上げると、蛍光灯の紐がゆらゆらと大きく揺れていました。地面全体が横に揺すられるような感覚を覚えて、すぐにテレビをつけて速報を見ました。3月11日午後2時50分頃の事でした。この瞬間から私の中での時計が止まったように、いつまでも同じところをぐるぐると思いが巡っています。
地震の大きさよりも津波の猛威は、想像をはるかに超えていました。史上希に見る惨劇です。私の祖母は宮城県の小牛田(こごた)という牧歌的で美しい田園地帯の出身で、私もそこにある祖母の生家を訪問したことがありました。仙台の町は私が大学受験のために浪人生活を送ったところです。テレビを通して目に飛び込んでくる光景は目を覆いたくなる物ばかりです。涙と共に語られる、人々の振り絞るような悲しみの言葉は、私にとって懐かしく優しい東北の訛で、そのことが一層悲しみをまします。
《春》は生命のはじまりです。東北の春はすこし、遠いかもしれません。私達が音楽を通じて出来る事は、春は必ず来ると言う事、それを忘れない事。そして《春》がどんなに素敵な生命を産み出してくれるか、それを音楽作品を通じて信じあうことではないだろうか、と思っています。
(藤井眞吾/2011年3月26日)
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