つい先日、サンフランシスコの D.タネンバウム氏からメールをもらい、メールには私がギター・アンサンブルのために昨年作曲した「カタロニア民謡による変奏曲」を彼の生徒達が演奏した録音ファイルが添付されていました。この曲は2011年に洗足学園音楽大学の委嘱で作曲したものですが、すぐに学生達のアンサンブルによって初演が行われ、そのビデオをFacebook
に公開すると、すぐにタネンバウム氏から連絡をもらい、とても良い曲だから楽譜を送ってもらえないだろうか、との依頼。言うまでもなくすぐに楽譜をサンフランシスコに送りました。
D.タネンバウム氏はアメリカを代表するギタリストの一人です。私が彼に初めて会ったのは1981年、ジュネーブのコンクールでの事でした。彼の演奏するヒナステラのソナタやブリテンのノクターナルは本当に素晴らしく、鳥肌の立つような感覚を今でも思い出します。
送られて来た学生達の演奏は素晴らしく、とても音楽的でした。音楽的、という言い方はよく使われますが、演奏行為そのものが作品本来の意とするところに忠実である、と理解頂ければと思います。私はこの録音を聞きながらもうひとつの似たような経験を思い出しました。2006年に作曲した《天使の協奏曲》は実は同年にニューヨークのエール大学の学生達によってアメリカ初演されていたのですが、この時の演奏も(私はこれには関わっていないのですが)とても音楽的で、素晴らしいく、こういう経験は日本ではあまりないと感じていた事でした。
日本ではともすると表面的な事にこだわり音楽の内実が表現されていなかったり、意味もなく楽譜と違うことをやって、それが個性だ等と嘯く輩がいます。そしてもうひとつの大きな違いはサンフランシスコからも、ニューヨークからも私のような無名の外国の作曲家の作品にも積極的な関心を示し、それを行動とし、更には演奏の前も、後も、丁寧な連絡をくれるという事です。作曲者としてそれが嬉しくない筈はありません。それはただ単に私が嬉しいという事を言っているのではなく、彼らが作品に真摯であり、敬意を払っている証拠だろうと私は思うのです。日本では全く逆の経験を(残念ながら)何度もしてきました。演奏者が作品に服従する必要はありませんが、作品に対する真摯な取り組みがなければ、決して音楽の核心に迫る事は無いでしょう。今回、タレガの作品を弾きながら、そのことを何度も考えました。
(藤井眞吾/2012年7月27日)
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