ギターのレパートリーにはスペインや南米をはじめとした南の方の国の音楽が多いのですが、日本の南には台湾があります。私は9月に台湾でリサイタルやマスタークラスをしますが、近年、台湾、韓国、中国、タイ、ベトナム、シンガポールなどアジア諸国ではギターが非常に盛んで、またそのレベルの上昇も目を見張るばかりです。今度のツアーもですから、とても楽しみにしています。台湾での土産話、そしてアジアのギター事情などをお話ししながら、演奏をお聴き頂こうと思っています。(藤井眞吾)
program note
19世紀の作曲家達の楽譜には、現代の楽譜に比べてはるかに「運指 fingering」が少ない、と言うことにお気づきでしょうか? F.ソルは出版社から「運指を付けてくれないと、アマチュアギター愛好家たちは弾けないんだから、是非運指を付けて欲しい」と懇願され、うんざりしたと言う話を伝え聞きます。事実、ソルの作品の多くにはほとんど運指がついていませんが、晩年の教育的目的で書かれた「作品44」には詳細な指使いが示されています。しかしこれは「ギターと言うのはこうして弾くものですよ」と教え伝えることを目的としている曲集なので、当然と言えば当然かもしれません。
運指が見られるようになって来たのは、ソルやジュリアーニのあと、コストやメルツ、そしてタレガに至ってはきわめて入念な指使いが書き込まれています。いわゆるロマン派以降の作曲家は、音楽の個性が指使いと密接に関係していることを感じていたからなのでしょう。 ではなぜ、ソルやジュリアーニは楽譜にあまり多くの運指を書き込まなかったのでしょうか? おそらく彼らにとって指使いは「言わずもがな」のことであって、ちゃんと勉強をしていればどうやって弾くのかはわかる、だからそんなことをわざわざ楽譜に書き込む必要はない、と考えていたのではないでしょうか。
20世紀になると、特にギターを弾かない作曲家の作品には校訂したギタリストが五月蝿(うるさ)いほどの運指を、左だけでなく、右指に関しても付けています。それはそれで意味のあることでしょうが、演奏者だけでなく、学習者も指使いは殆どの場合、「ちょっとお節介な助言」くらいに思うべきであって、その作品がどうやって弾かれるべきか、ということは奏者が個々に考え判断すべきであり、その考えなしに演奏することは空虚な指の運動でしかありません。
さて今回のプレゼント編曲はショパンの名作《雨だれ前奏曲》ですが、これはかなり気に入っている、そして成功した編曲のひとつだと自画自賛しております。しかし運指は全く書いておりません。理由のひとつは(ソルやジュリアーニがおそらく考えたように)、やはりそれは「言わずもがな」の事に思えて仕方が無いから、ということ。ちゃんと演奏できる編曲ですから、考えて演奏して頂きたいというわけです。もう一つの理由は、運指を書き込む時間がなかったから・・・。最後の理由はいささか弁解に近いかもしれません。
運指を考えること、そして演奏することをお楽しみ頂ければ幸いです。 (藤井眞吾:記/2015年9月25日)
今月の「プレゼント編曲」は、前奏曲《雨だれ》 Op.28-15(F.ショパン/藤井眞吾 編曲)でした。
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